2007-05-30

書・書道・臨書:臨書「本阿弥切」

 昨日の当ブログでも掲載した、「本阿弥切」(ほんあみぎれ)を臨書。
 しかし、昨日の「本阿弥切」臨書作品よりは、上の「本阿弥切」臨書作品のほうが、よりその特徴が表現された箇所を臨書している。
 紙面を切り裂くような鋭い筆致がこの古筆の持ち味である。それを(仮名の世界だけに留めるのではなく)漢字などの作品にも応用したいところである。

2007-05-29

書・書道・臨書:臨書「本阿弥切」

 最近のこの当ブログでは漢字の臨書が続いていたので、今日は古筆のなかで「本阿弥切」(ほんあみぎれ)を臨書してみた。その本阿弥切のなかでも、非常に(書道作品としての)展開の大きな箇所臨書した。
 漢字と仮名は対極にあるようなことを聞いたことがある。しかし、これは大きな誤りで、漢字も仮名も同次元のものであり、双方ともに学んで始めて両者の奥深さ、および自身が専門とする書道の領域の深淵さを知るのである。
 私の場合、漢字の書家であり、特に近代詩文書の場合、仮名造形も作品に混じる。
 よって仮名造形が正しく扱えないと、近代詩文書の質も低下する。

2007-05-28

書・書道・臨書:臨書「木簡」

 引き続き、木簡を近代詩文書の細身の羊毛超長鋒筆にて臨書してみた(「承五月餘官弩」)。書の大家をはじめ、多くの書家で、木簡の豪快且つリズミカルな書風を自身のそれとしている場合が見受けられる。
 私の場合は、木簡の特長を生かしながらも、それをあまり表面化させず、それを内在させて創作活動(書道作品制作)を行う書家の分類に入る。
 どちらにせよ、やはりこの木簡の書風は必ず体得しなければならない“古典”の一つであると言えるのではないか、と考える。

2007-05-27

書・書道・臨書:臨書「木簡」

 今日も、昨日に引き続いて、木簡を臨書してみた(「餘官弩ニ張箭」)。筆も同じ、近代詩文書用の細身の羊毛超長鋒筆である。
 「近代詩文書をやるには、まず木簡を体得する必要がある」と説いた書の大家がいた。木簡の臨書をしていると、豪快で粘り強い線質に加え、非常にリズミカルな動きを学び取ることができる。
 そのようなことを想うと、その書の大家の言葉もよく理解できる感がある。

2007-05-26

書・書道・臨書:木簡を臨書する


 私が主宰する書道教室でもそうだが、今まで書道と馴染みの薄かった人に『木簡も臨書学習の良質なテキスト』ということを話すとビックリされる。
 しかし、大胆な終筆や筆勢豊かで粘りのある線質にて描かれた文字造形には、いつも尊敬の念をもって接している(過日の当ブログでも紹介した、顔真卿に勝るとも劣らない強烈なインパクトを持っている)。
 その数多く出土された木簡の中から「居延漢簡」の木簡のなかの一節「陷堅羊頭銅■」を臨書(■は金ヘンに候)。

2007-05-25

書・書道・臨書:臨書「石鼓文」

 過日にも当ブログとりあげた、篆書体の古典「石鼓文」(せきこぶん)の一節「事録舊拓」を臨書。
 今度は近代詩文書に用いる、細身の羊毛超長鋒筆(柔らかくて長い筆)を使用して臨書してみた。
 昨日の当ブログ『書・書道・臨書ブログ』にも記述の通り、最初の頃の臨書スタイルは、古典の文字造形・筆法などを忠実に習い、そしてある程度、その古典の“いわんとするところ”が理解できるようになれば創作活動へ目を向けた臨書の姿勢が必要不可欠になる。
 書家とは、確かに古典臨書によって培ったものを基盤として、創作活動に当たることが必要ではある。しかしながら、古典臨書を最終目標(書道作品制作)にしてはならない。臨書のための古典ではいけないのだ。

2007-05-24

書・書道・臨書:臨書 顔真卿「祭姪文稿」



 昨日に引き続き、中国唐時代の四大書家の一人、顔真卿の「祭姪文稿」を臨書学習(「■■階庭蘭玉」一文字目の■は王ヘンに胡。二文字目の■は王ヘンに連)。

 偏と旁の大きな空間など、文字の中の余白を潰さずに残し、非常に粘り強い強靭な線質は、是非、創作活動で生かしたいものである。

 臨書を行うときに、その古典(法帖)に慣れ親しんだら、今度はそれ(臨書を繰り返し行った古典)を上手く揮毫する、という意識から脱却し、創作への道を強く持つ求めることが、書道には必要不可欠である。

2007-05-23

書・書道・臨書:顔真卿「祭姪文稿」



 中国唐時代の四大書家の一人、顔真卿(がんしんけい)の「祭姪文稿」(さいてつぶんこう)の一節「以清酌庶羞祭」を臨書してみた。

 豪快かつ重厚で粘り強い線質をもって、文字の懐(余白)を多くとるその書風のスケールの大きさは、まさに圧巻である。

 顔真卿の古典のなかには、一見すると正統派とは呼べそうにないそれもある。しかし、具に観察してみると、そのなかにはしっかりとした王羲之系統の流れを行く要素が基盤となっている事実に気付く。

 上の顔真卿「祭姪文稿」の臨書は、近代詩文書に使用する、比較的細身の羊毛超長鋒筆(柔らかく長い筆)を用いて揮毫した。

2007-05-22

書・書道・臨書:臨書 王羲之「十七帖」



 昨日に引き続いて、“書聖”王羲之(おうぎし)「十七帖」の一節「天鼠膏治耳聾」を臨書してみた。
 確かに、十七帖は肉太の線を用いて、重厚さを表現している。しかし、それだけでは単なる重苦しい書道作品にしかならない。
 十七帖の古典を詳細に観察してみると、“自然に”軽快な動きを見せる箇所を作っている。
 正統派の流れを行く古典の共通テーマは、やはり“自然”である。
 また、近年では、「読める書道作品」なるものが流行っていて、(読みにくい)草書を学習する機会が減ってきているようである。
 しかし、それでは、自身の書道作品に奥深さを与えることなどできない。と同時に、あらゆる書道の領域(書体)を広汎に渡って臨書学習しなければ、書家としてさまざまな意味で活動に支障が出ることになる。
 まず、草書体を用いて表現する仮名書道作品を制作できない。そして書道教室などでの門下の指導にも行詰りを感じることになる。

2007-05-21

書・書道・臨書:臨書 王羲之「十七帖」



 当ブログではじめて「草書体」をとり上げる。

 そして、草書を習うに当たって、草書体の古典で、その“中心”を行くものの一つ、“書聖”王羲之(おうぎし)「十七帖」の臨書作品を掲載してみた(「増歎慨頃積雪」)。

 線は非常に肉太で、たくましさをみせている。また、“無駄な線の動き”が無いのも(臨書を通じて)習うべき点である。それらが、創作活動の際の“自然”を生み出すヒントとなる。

2007-05-20

書・書道・臨書:臨書「曹全碑」


 隷書(れいしょ)体のなかでも標準を行く「曹全碑」(そうぜんぴ)の臨書作品である(「廷曹廊閤升降」)。
 隷書は「古隷」(これい)「八分隷」(はっぷんれい)と大きく分類される。「曹全碑」はそのうち、「八分隷」に含まれ、その代表格。
 隷書の特徴は「行書・草書体のように、右上がりをさせない」「八分隷には、終筆部分に“波磔”(はたく)と呼ばれるものがついている」「(一般に)文字造形が扁平である」ことが挙げられる。
 しかし、ただ単に、楷書を扁平にして波磔を付けても隷書にはならない。古典臨書により、的確な隷書の筆法、隷書の造形性を身につけなければ、(隷書らしき“モノ”にはなっても)隷書の本質には迫れない。

2007-05-19

書・書道・臨書:臨書「虞世南 孔子廟堂碑」


 今日は中国唐時代の四大書家の一人、虞世南(ぐせいなん)の「孔子廟堂碑」(こうしびょうどうひ)を臨書(「然後知達學之」の一節)。
 上の臨書作品と活字を比べて、驚くべき箇所が多く含まれる。「後」「達」は一目瞭然である。そして「然」のレッカの一番左の点の位置、「知」の口の位置も体得しておくと、必ず、創作活動で役に立つ。

2007-05-18

書・書道・臨書:臨書「傅山 行草五言古詩巻」


 昨日に引き続いて、臨書作品「傅山 行草五言古詩巻」を掲載してみた(「在掌所失皆糠」)。
 この箇所も、“現代感覚”溢れる、創作書道作品のヒントとして捉えることが可能である。勢いを次々と下方へ運び、「所」などの大きく展開するところ、そしてそれを引き立たせるために、「先」などの控えめな箇所を作ったりと、見どころ満載である。
 書家として、書道教室などで指導する際にも、“臨書のための臨書”とするのではなく、上記のような点に注意しながら、臨書学習を進めるように、とアドバイスしている。

2007-05-17

書・書道・臨書:臨書「傅山 行草五言古詩巻」


 ここ数日は「石鼓文」(せきこぶん)という篆書体の臨書作品を通して、“無表情”な書体を紹介した。今日は、過日の当ブログ『書・書道・臨書ブログ』でも既に取り上げている「傅山(ふざん) 行草五言古詩巻」の臨書学習で、自身のリズムを(そして、この『書・書道・臨書ブログ』の雰囲気も)変えてみたいと考えた。
「傅山 行草五言古詩巻」の一節「佳児辛日時戊」を臨書してみた。古典作品解説をすると、「佳」で縦長の造形を作り、「児」で左右に勢いを持たせ、「辛」でさらにそれを強くし、「日」で控えめな箇所を作り、「時」でまた横に勢いのある造形を作っている。
 臨書の際はこのような部分などを注意して観察すると、臨書力もつき、創作活動にも結び付けやすくなる。

2007-05-16

書・書道・臨書:臨書「石鼓文」


 昨日に引き続いて、石鼓文(せきこぶん)の臨書を行ってみた。
 先の当ブログ『書・書道・臨書ブログ』でも記述の通り、私は行書体・草書体を中心とした作品を中心に、創作活動(書道作品制作)を進める書家である。
 しかしその根底には、上のような“無表情”な体裁をとる篆書体などの、他の書体の臨書過程がなければならない。それを無くしてしまうと、単なる浅い“モノ”にしかならない。

2007-05-15

書・書道・臨書:臨書「石鼓文」


 今まで、筆勢豊かな古典の臨書作品を掲載した機会が多かった。そこで、今日は篆書体の古典である「石鼓文」(せきこぶん)の一節「チョウ勒既簡」を臨書してみた。ちなみに、篆書の書体は今から三千年ほど前の書体である。
 篆書の古典の臨書方法であるが、上の「石鼓文」の臨書作品をみていただいてもお分かりの通り、左右対称で縦長のスタイルが(篆書体の)基本である。そして、書道作品としてみたときに“表情”が無い。
 楷書、行書、草書、隷書などの他の書体を習ってから、篆書体を臨書してみるとその意味がより分かりやすいかもしれない。

2007-05-14

書・書道・臨書:臨書「曹全碑」


 隷書(れいしょ)体の古典、「曹全碑」(そうぜんぴ)の一節「後舊姓及脩身」を臨書してみた。私は基本的に、行書・草書体、そして近代詩文書(きんだいしぶんしょ。書道団体、書道展によって「詩文書」、「調和体」など呼び方は変る)を中心に、書道作品を発表する書家である。
 しかし、書家というものは、あらゆる書体を古典臨書によって広く学ぶ必要がある。自身の書・書道における最終的な専門領域、というのは(その名の通り)最終的なものでよい。
 当ブログでは、あらゆる書体の古典(そして古筆も)をとり上げていく。

2007-05-13

書・書道・臨書:臨書“書聖”王羲之「蘭亭叙」

 “書聖”王羲之(おうぎし)「蘭亭叙」(らんていじょ)の一節「也羣(群)賢畢至少」を臨書。特に、書道作品制作上、注目すべきは二文字目の 「羣(群)」である。
 例えば上に横長の文字造形があれば「羣」を使って、そして上に縦長の文字造形があれば「群」を使って、書・書道作品に変化をつけてやる。
 私は書家として、ただ単に蘭亭叙を上手く臨書する、ということにとどまらずに、上記のような、常に創作活動に移行できるような視点で、古典・古筆と接するようにしているし、書道教室でも、そのようなことを、(口癖のように)申し上げている。

2007-05-12

書・書道・臨書:臨書 傅山「行草五言古詩巻」

 昨日に引き続いて、臨書【臨書 傅山「行草五言古詩巻」】の臨書作品を掲載。臨書した箇所は「麟彼蒼司厥市」である。
 しかし(昨日の、当ブログでも記述の通り)昨日の臨書【臨書 傅山「行草五言古詩巻」】より、こちらの臨書作品の方が、より、創作書道作品への手がかりとなる展開をみせている。
 傅山「行草五言古詩巻」】の臨書学習を通して、“強い右上がりの習得”を目指したい。

2007-05-11

書・書道・臨書:臨書 傅山「行草五言古詩巻」

 今日は、中国明時代の書家、傅山(ふざん)「行草五言古詩巻」を臨書してみた。「倚蚌珠今在掌」の箇所であるが、書道作品に応用するには、非常に参考になる箇所の一つである。
 明日は、同じ臨書、傅山(ふざん)「行草五言古詩巻」の一節の臨書作品を掲載するが、そちらの方がより、創作書道作品の参考になると思われる部分である。

2007-05-10

書・書道・臨書:臨書“書聖”王羲之「蘭亭叙」

 書・書道に少しでも携わっている人であれば、“書聖”王羲之(おうぎし)「蘭亭叙」(らんていじょ)を臨書学習したことが無い(もしくは、王羲之の「蘭亭叙」を知らない)、ということは無いであろう。万が一、王羲之「蘭亭叙」を臨書学習したことが無い、ということであれば、必ず、自身の書・書道学習法(臨書学習法)を見直すべきである。
 “書聖”王羲之「蘭亭叙」は書・書道を学ぶ上で(臨書学習する上で)、決して避けては通れない古典の一つである。
 その“書聖”王羲之「蘭亭叙」の冒頭部分「永和九年歳在」の箇所を臨書学習してみた。
 なお、「歳」と上の臨書作品のそれとで異なっているのは、書・書道の世界特有の文字造形「筆写体」(ひっしゃたい)に由る。

2007-05-09

書・書道・臨書:臨書「寸松庵色紙」(よく見かける構成の一葉)


この「寸松庵色紙」(すんしょうあんしきし)の構成は(前回の「寸松庵色紙」のそれと比べると)創作仮名書道作品で頻繁に見かける作品構成である。右下の文字群と左上のそれでの書・書道作品の展開となっている。
 非常にオーソドックスな書・書道作品の構成だけに、必ず臨書学習しておきたい一葉である。

2007-05-08

書・書道・臨書:臨書「孔子廟堂碑」(其のニ)


 今日も、中国唐時代の四大書家の一人、虞世南(ぐせいなん)「孔子廟堂碑」(こうしびょうどうひ)の臨書を行ってみた。
 孔子廟堂碑は、欧陽詢(おうようじゅん)「九成宮醴泉銘」(きゅうせいきゅうれいせんめい)とよく比較の対象となり、やや丸みを帯びた書風の楷書体である、と過日の当ブログでも記述した。
 しかし、同じ、「孔子廟堂碑」の古典であっても、箇所によっては、そうでない(丸みを帯びた文字造形でない)ところもある。
 ただ、「孔子廟堂碑」の特徴は何と言っても“向勢”(こうせい)と呼ばれる、上述のような点が特徴であるので、今回もその特徴がよく表現されている部分を臨書学習してみた。

2007-05-07

書・書道・臨書:臨書「孔子廟堂碑」


 今日掲載した臨書作品は、中国唐時代の四大書家の一人である虞世南(ぐせいなん)の「孔子廟堂碑」(こうしびょうどうひ)の一節「以測精微修春」である。
 孔子廟堂碑は、(こちらも中国唐時代の四大書家の一人で)欧陽詢(おうようじゅん)「九成宮醴泉銘」(きゅうせいきゅうれいせんめい)と対比して議論されることが多い。今回、臨書学習した「孔子廟堂碑」はやや丸みを帯びた趣を呈しているのに対し、九成宮醴泉銘は、それの逆を行く。
 どちらが秀でている、ということではなく、どちらの書風も体得しなければならない、と考えるべきである。
 ちなみに私の書道教室では、「孔子廟堂碑」を先に臨書学習する。

2007-05-06

書・書道・臨書:臨書「寸松庵色紙」(構成のオモシロさの臨書学習)


 先日まで、古筆は「寸松庵色紙」を臨書してきたが、今日は(その「寸松庵色紙」のなかでも)構成が非常にユニークな一葉を臨書学習してみた。
 「つ(徒)らゆき」を下部に、勢いを抑え目に配置し、上部で右から左へと、作品を大きく展開している。
 私はよく、古筆の臨書で学んだ作品の構成方法を(仮名だけでなく)近代詩文書にも応用している。

書・書道・臨書:臨書「寸松庵色紙」(其のニ)


 ある仮名書道の大家が、「寸松庵色紙」(すんしょうあんしきし)のことを“古筆の王様”と称していたことを記憶している。この寸松庵色紙は、まさに、その言葉にピッタリの、威風堂々たる雰囲気を醸し出している。粘り強く抑揚の効いた線質、豪快な筆捌き、筆の開閉運動など、臨書学習していて、気を抜くところがない。
 しかし、これだけ豪快な古筆であるのに、全く重苦しさを感じさせない。それは、臨書の際によく観察してみると理解できるが、行間を広く開けて作品全体に広がりを持たせている点、文字造形の中の余白をできる限り多くとる技術などで、作品に余裕を持たせているからである。

2007-05-05

書・書道・臨書:臨書「寸松庵色紙」


 私は漢字・近代詩文書(きんだいしぶんしょ。書道団体、書道展によっては「調和体」、「詩文書」など呼び方はさまざま)を専門とする書家である。
 しかし、(特に)近代詩文書は仮名の文字造形も扱う、書・書道のジャンルである。よって、古筆の雅なところを臨書学習しなければ、(近代詩文書らしき“モノ”はできても)ほんものの近代詩文書“作品”を創り出すことは不可能。断言できる。
 その古筆のなかでも「寸松庵色紙」(すんしょうあんしきし)の一葉を臨書。
 なお、文字部分を拡大して撮影するため、周囲の余白をある程度カットしてある。

2007-05-04

書・書道・臨書:王鐸作品を臨書する(其の三)


 今回も、「王鐸 臨王羲之・王献之帖」の一節「江州助遣船迎」を臨書。
 王鐸作品を全体的に鑑賞していると、実ににぎやかな様子がうかがえる。しかし、先日の当ブログでも記述したように、その根底には、王羲之(おうぎし)や王献之(おうけんし)、顔真卿(がんしんけい)などの正統派の流れを、そのまま受け継いでいることが(臨書学習を通して)よく伝わってくる。
 隷書のみ、篆書、古代文字のみ手懸ける、という人々もいるが、やはり書家といわれ、書道教室などで、書の本質を伝える立場である以上、それぞれの各書体の正統を行く古典の、ある程度の幅をきかせた臨書学習は必要不可欠である。


書・書道・臨書:臨書「王鐸 臨王羲之・王献之帖」、形臨、意臨、背臨

 続けて、「王鐸 臨王羲之・王献之帖」の一節「唯省一書足慰」臨書を行ってみた。
 臨書の方法について少し。基本的に私の臨書姿勢は、半紙臨書作品とする場合は「形臨」(けいりん)である。形臨とは、法帖の造形に重点を置き、それにできる限り近づくように、とする臨書の姿勢のこと。他にも、「意臨」(いりん)や「背臨」(はいりん)といった臨書姿勢がある。意味は、どちらも「古典の形のみにとらわれることなく、それの有する筆法などのあらゆる要素を理解し、書・書道作品制作に臨むこと」という点では一致している(「背臨」の方が、より創作活動への意識を強く持つ趣旨で用いられる)。
 そして、私の条幅臨書作品の際の臨書姿勢は「意臨」もしくは「背臨」である。
 臨書の姿勢の区別も付けずに、無批判に「何が何でも形臨」という“臨書のための臨書”では、いつまで経っても創作活動などできない。

2007-05-03

書・書道・臨書:臨書「王鐸 臨王羲之・王献之帖」


 「王鐸 臨王羲之・王献之帖」の一節「歳使應有書未」を臨書学習してみた。
「王鐸 臨王羲之・王献之帖」は条幅(じょうふく)で、縦に長い書・書道作品。であるので、縦長の書・書道作品制作の際に必要となる、“下方への意識・流れ”の体得には恰好の臨書学習の素材である。
 一方、この縦長の条幅作品を半紙臨書作品、とするには、(臨書作品とするにとどまらず)やはり半紙作品という事も考慮して制作しなければならないため、またそれなりの工夫が要る。